以前の記事が1年以上前に感じる。半年も無い感じかぁ。
まぁそれくらい色々あったのは確かだね。
社会的立場もコロコロ変わって…、人との巡り合わせに影響されて…
そんな中、
最近の変化について1つ、書き残します。
・今まで
以前の僕は「うざい」やら「キモい」やらいう感情提示というものについて酷く厳しかった。
挙句の果てには「面白い」という提示にも疑問を抱くようになってきた。
元々は、いじめの現場でよく発せられる言葉として警戒していたはずだけど、拘るあまり変質するに至った。
「おいそれ、いじめ成分含んでね?他者卑下になってね?」
原因はというと感情についての理解がまず歪んでいたという事。
というより短所しか見ていなかった。
感情とは、さして重要でない情報を無意識下で勝手に刈り取り、分かりやすい表現に落とし込んでくれる機構。といった具合の理解だろうか。
いやこの理解自体は良いんだけど、
"さして重要でない情報"の判断基準について考えた途端、僕の中で因縁の戦いがまた始まってしまった。
「はて、どんな情報が重要じゃないの?」
「自分に益をもたらさないものかな?利己的な判断かな?」
「自分を否定してくる他者の都合かな?問答無用で排除したいと思わせるのかな?」
本能が直接制御しているようなこの機構が優先するものなんて、既に限られていた。
「嫌な事こそ論理的に解釈して合理的な解答を見つけないと前に進まないのに、感情は勝手に削り取っちゃうの?」
[_____]ε:)
以前の僕は、
"皆が自分の事しか考えない世の中だとどこかで理不尽が生まれる。"という理念を全力で採用していた。
そんな以前の僕が、
感情を"自己都合を優先して生きるための忘却手段"などと捉えてしまったら、それはそれは、危険極まりない機構に見える事だろう。
もちろん「ある程度は必要だよね、疲れるもんね」とは言っていたものの、
単純に程度を誤解していたと思う。
"ある程度は必要"じゃなくて、
そもそも"人生の大半で必要"なんだと。少なくとも現在の人類的には。
気付いた頃には、
「皆が皆幸せになるためには皆で感情を制御し合う必要がある」と、そんな事を言っていた。
いやまぁ今も間違ってるわけじゃないと思うが。
良くも悪くも男社会だけで考えていた部分はあった。
その時点での解答としては満足していた。
以上がこれまでの話。反省文。
・これから
ここ最近の変化として、
視界にリアルの女性を含めるようになってきた傾向がある。
当然「うーんやっぱボクらとは波が違うなぁ」とは思ってくるわけだが、
そうなると僕なので「女の頭ってどうなってるの?」という疑問に突き動かされ調べたい事は調べる。
……結果、生まれた変化があった。
詳細は省くけど、つまる所、"感情の重要性"についての姿勢は変わった。
もう寛容になってもよいと、
「女含めた全体で考えれば必要だわこれ」と、
そんな納得をしたわけだ。
ただ僕は人については知識や感情よりまず意思を見ておきたい人間。
今まで感情の事を"本能に欲求を加工され自我もクソもなくなる機構"などと思っていたので、
人様の感情提示を素直に受け取るかどうかという判断には1つチェックが絡んでいた。
それは「それって自覚的な感情提示?」という確認。
例えれば"我を忘れつつある無自覚的な怒り" と、 「自覚的に怒ってるんだぞ俺は」と言える怒りの差だと思ってくれればいい。
そこに僕は意思の有無を感じた。
感情提示だって自覚さえあれば意思の提示と同列に扱えると、そう思っていた。
無論そうでなくとも、無自覚的な感情だって"娯楽のためのノリ"としては良いものだと理解していた。
……十分キモいよね。慎重すぎるよね。
でも文化人様が動物になるのも、動物が文化人を虐待するのも、本当に嫌だったんだ。
(:3[____]
しかし
"人生の大半で感情は活用されるべきもの"、"共に付き合うべきもの"という理解を得れた事で
まぁただの程度変化ではあるけど、許容範囲を広げることが出来た。閾値を下げる事にした。
一言で表すと
「別に感情そのものを意思と捉えても良いのではないか(人によって見定めないといかんけど)」という言葉が出るまでは、許せるようになった。
するとどうか、途端に
「これキモい」「お前ダサい」「あいつウザい」などという直感的な感情提示すらも
貴重なアウトプットに見えるではないか。
意思なんだもん。全て愛おしい意見だ。ハァハァ。
ともかく無いよりはあった方がいい。思ったなら言った方が良い。
「短絡的じゃないかなぁ」という嫌悪感を感じる前に
"今の状態を吐き出してくれる喜び"の方が先に出るようになったと思う。
( 無論、闇を吐く事を強要する存在にはなっちゃいけない。
発言せず自分の中で消化する人だって多く居る。
限られた人にだけ闇を吐いておきたい秘密志向だって尊重したい。)
以上、心の近況報告でした。