2016年1月25日月曜日

感情提示行為、良いと思えてきた

やほほほ。
以前の記事が1年以上前に感じる。半年も無い感じかぁ。

まぁそれくらい色々あったのは確かだね。
社会的立場もコロコロ変わって…、人との巡り合わせに影響されて…


そんな中、
最近の変化について1つ、書き残します。

・今まで


以前の僕は「うざい」やら「キモい」やらいう感情提示というものについて酷く厳しかった。
挙句の果てには「面白い」という提示にも疑問を抱くようになってきた。
元々は、いじめの現場でよく発せられる言葉として警戒していたはずだけど、拘るあまり変質するに至った。
「おいそれ、いじめ成分含んでね?他者卑下になってね?」

原因はというと感情についての理解がまず歪んでいたという事。
というより短所しか見ていなかった。
感情とは、さして重要でない情報を無意識下で勝手に刈り取り、分かりやすい表現に落とし込んでくれる機構。
といった具合の理解だろうか。
いやこの理解自体は良いんだけど、
"さして重要でない情報"の判断基準について考えた途端、僕の中で因縁の戦いがまた始まってしまった。

「はて、どんな情報が重要じゃないの?」
「自分に益をもたらさないものかな?利己的な判断かな?」
「自分を否定してくる他者の都合かな?問答無用で排除したいと思わせるのかな?」

本能が直接制御しているようなこの機構が優先するものなんて、既に限られていた。

「嫌な事こそ論理的に解釈して合理的な解答を見つけないと前に進まないのに、感情は勝手に削り取っちゃうの?」


[_____]ε:)


以前の僕は、
"皆が自分の事しか考えない世の中だとどこかで理不尽が生まれる。"という理念を全力で採用していた。

そんな以前の僕が、
感情を"自己都合を優先して生きるための忘却手段"などと捉えてしまったら、それはそれは、危険極まりない機構に見える事だろう。
もちろん「ある程度は必要だよね、疲れるもんね」とは言っていたものの、
単純に程度を誤解していたと思う。

"ある程度は必要"じゃなくて、
そもそも"人生の大半で必要"なんだと。少なくとも現在の人類的には。

気付いた頃には、
皆が幸せになるためには皆で感情を制御し合う必要がある」と、そんな事を言っていた。
いやまぁ今も間違ってるわけじゃないと思うが。

良くも悪くも男社会だけで考えていた部分はあった。
その時点での解答としては満足していた。


以上がこれまでの話。反省文。


・これから


ここ最近の変化として、
視界にリアルの女性を含めるようになってきた傾向がある。
当然「うーんやっぱボクらとは波が違うなぁ」とは思ってくるわけだが、
そうなると僕なので「女の頭ってどうなってるの?」という疑問に突き動かされ調べたい事は調べる。
……結果、生まれた変化があった。

詳細は省くけど、つまる所、"感情の重要性"についての姿勢は変わった
もう寛容になってもよいと、
「女含めた全体で考えれば必要だわこれ」と、
そんな納得をしたわけだ。

ただ僕は人については知識感情よりまず意思を見ておきたい人間。
今まで感情の事を"本能に欲求を加工され自我もクソもなくなる機構"などと思っていたので、
人様の感情提示を素直に受け取るかどうかという判断には1つチェックが絡んでいた。
それは「それって自覚的な感情提示?」という確認。

例えれば"我を忘れつつある無自覚的な怒り" と、 「自覚的に怒ってるんだぞ俺は」と言える怒りの差だと思ってくれればいい。

そこに僕は意思の有無を感じた。
感情提示だって自覚さえあれば意思の提示と同列に扱えると、そう思っていた。

無論そうでなくとも、無自覚的な感情だって"娯楽のためのノリ"としては良いものだと理解していた。
……十分キモいよね。慎重すぎるよね。
でも文化人様が動物になるのも、動物が文化人を虐待するのも、本当に嫌だったんだ。

(:3[____]

しかし
"人生の大半で感情は活用されるべきもの"、"共に付き合うべきもの"という理解を得れた事で
まぁただの程度変化ではあるけど、許容範囲を広げることが出来た。閾値を下げる事にした。
一言で表すと
「別に感情そのものを意思と捉えても良いのではないか(人によって見定めないといかんけど)」
という言葉が出るまでは、許せるようになった。

するとどうか、途端に
「これキモい」「お前ダサい」「あいつウザい」などという直感的な感情提示すらも
貴重なアウトプットに見えるではないか。
意思なんだもん。全て愛おしい意見だ。ハァハァ。
ともかく無いよりはあった方がいい。思ったなら言った方が良い。愚痴大好きマン

「短絡的じゃないかなぁ」という嫌悪感を感じる前に
"今の状態を吐き出してくれる喜び"の方が先に出るようになったと思う。

( 無論、闇を吐く事を強要する存在にはなっちゃいけない。
  発言せず自分の中で消化する人だって多く居る。
  限られた人にだけ闇を吐いておきたい秘密志向だって尊重したい。)


以上、心の近況報告でした。

2015年9月6日日曜日

自分は自分、他人は他人!でいいのだろうか。

始めに正義感ありき。みたいな人格を備えてしまって正直厄介に思っている。
あからさまな自分語りから始めますけど、僕には平和ボケを地で行く過保護な環境で育ってしまったと自負しちまう部分がある。言うほど極端ではないけど、今のところはやっぱり「もっと上手にしつけて貰えたら嬉しかったかな」と。

「みんな仲良く手を取り合えば相互理解うんぬん」言う平和志向がまず備わるのは致し方無い部分もあった。まぁ現父母との巡り合わせと思えばただただ仕方がないし、そんな自分が嫌いという事は今はない。

で、だからと、
人様の 「自分は自分、他人は他人」 という主張や意見を見聞きした時にさ、
僕はこういう事を考えるわけだ。特に切羽詰っちゃった時の例ね。

「は?
随分個別的だね。
保身的なのかな?
事なかれ主義?
皆が皆自立しきって生きていけると思わないで欲しい。
僕には手を差し伸べない事を正当化しているように聞こえるし、
やろうと思えば皆が皆助けあって生きていく事も出来る。
そりゃ他者の事情に介入するのは面倒かもしれないけど、そもそも何で面倒って感じてるの?
あれ、そもそもその感性が分からない。
なんで僕は平等(無差別)に相互理解を得たいと思ってるんだ・・・ 」

唐突に情に揺られているしバカにもなっている。もはや正義感というより、正義感だったものが変質した何かだ。時間をかけて引きこもった結果とも言える。実際何かの病気かもしれんが、今話したい内容にはそれは直接関係ない。

まぁ僕の情がまず直感的に「気持ち悪い」と思う事は否定できないが、
それは病気として受け入れて生きていくべきだと思うが、
当社会では"ある程度は個別的にならざるを得ない部分もある"事には納得しなければならないと思うので、
今至っている答えを今回は書き残しておく。


以上の乱雑な思考で最も危惧し防ぎたいと思っているのは

自分で問題解決に至れていない者に対し"他人は他人"という理屈を以って放置を選ぶ事。

さらに無差別に手を取り合う事に拘っている点を要約すると

「厄介だろうが周囲に迷惑をかけているだろうが確かに"悪"らしかろうが介入すべきだ。てか当社会で悪という認識を使うならその時点でちょっと議論したい」

という意思の顕れである。僕が切羽詰まると毎度これを言っていると思ってくれていい。
とりあえずの問題は、"触れられなくなる者"の存在だ。
ここではそれを表現するために自立という言葉を使っているし、
ここで使っている自立について掘り下げる。自立できていないって何の事言ってんの?

自立という言葉の定義は僕には出来ないし、意味合い的には自律の方が近いとは思うが、
僕の勝手な印象に名前をつけているだけなので、あえて広義に扱える自立と言う事にする。

僕の思う自立・・言うなれば文化的自立は、
・自覚的で、最低限の論理思考を身につけ、助け合える状態。
・合理性を仲間にしている状態。
・以上の事が出来るほど余裕を確保できる状態。
といったような印象で構成されてる。色々言葉を見つけてハリボテ概念を作り出す事しか出来ない、申し訳ない。
ともかく言える事は誰だって切羽詰まれば非自立的になる。
乱暴な比喩だが誰だって切羽詰まれば文化人から動物になる。
そのくらいの差異が人様の判断力に生じていると思うからこうまで言いたい。

で、文化的に自立できていない状態では
人と助け合おうがそもそも他者の都合を推測する余裕すら持ち合わせていないと思える事が多かった。
誤解を回避する事が常に難しい。
ゆえにそもそも意思の疎通がままならない。
(でも印象の疎通は出来るかもしれない。印象の投げ合いだって僕は対話と呼んでおきたい。)
まぁ総じて程度問題だ。

余裕が無ければ人を癒やそうとしてもその間に無自覚的に人を傷つけやすい。誤解の回避にはエネルギーが要る。余裕が要る。
勝手に発生する摩擦を防げない。特に文化の差異に脆弱になる。

対して、常識や文化、捉え方や考え方が合う者同士であれば、印象の投げ合いだけでも質の高い対話が出来る。もはや前提知識が盛られすぎて傍目謎の単語が飛び交い続ける文化だって多いように思う。
気を使う必要が無い。誤解可能性が低く保たれる。まぁ過ぎれば退屈さで虚無感が生まれそうだけど。

が、現代人であればそういったものが通じない世界にいつかは放り込まれる。
現代社会で働く場合にグルーピングされる空間の殆どと言っていいだろうか。
僕は大学って場所を身をもって体験した事が無いけど、大学らへんで既に十分すぎるそれがありそうな気もする。

正直言って皆が常に文化的に自立出来ている事なんて滅多にない。
汲み取り合う余裕が素で持てない(苦手な)者は常に居るし、文化がどれくらいかけ離れていて周囲に合わせるためにどれくらいのエネルギーを使うべきかは運任せな部分が本当に多いと思う。実に人それぞれだ。美しい多様性だ。
合わないなら合わないで真っ先にある程度の妥協点を見つける人が大半だと思うけど、どれほど妥協するかは巡り合わせ次第だと思う。
まず自分なりの妥協点を見つける。

一見気持ちよく付き合えても、根がかけ離れていてエネルギーを使うことになる人も居る。
そんなリスキーな人もあらかじめ避けるような、そんな妥協点を得る人も居るかもしれない。
まず自分なりの妥協点を見つける。

そうやって皆、程度問題と付き合っている。
ここまでが「そういうものだ」と納得できている1つのターニングポイント。
その先にようやく"助け合う事に意味がある世界"を見出した話をしたい。
相互理解に価値を感じて、ちょっと深い対話を始める事ができる仲がようやく発生する。
時には身を削ってでも同胞を助ける事で、最終的に仲間達で成長できる事もある。
そういう世界にようやく入るという話をしたいんだけど、
書くの疲れてきました。一旦割愛。

当初言いたかった事が埋もれてしまったので、都合良い箇条書きして今日は終えます。

・自立はムズい

・社会に揉まれ理不尽を受けて防波堤建設までは誰もがする。するしかない。

・これで自立状態になる頻度が急に増えるものだと思う。

・自立した者同士なら誤解を避け合って助け合える。文化差の程度はついてまわるが。

・自立するまでは各々の問題、他人は他人という理解に留まらないといけない。介入は無駄なエネルギー消費になりやすいと思った。なので仕方ない。

・人々が余裕持ちやすい、自立しやすい環境作りたいよな。作りたくない?

そんな動機で当記事を書き始めました。国語力については精進します。。
また機会があれば。では。

ブログ乗り換え。

5年周期くらいだろうか、
定期的にブログを新規に乗り換えてしまっている気がする。まぁこういうのならまだ乗り換えるだけ自由が利くし、心機一転という事ならそれでいい。恐らくはメリットの方が大きい。
と思いたいがどうだろう。

今は他にカードゲーム用のブログがあるけど、当ブログでは"その他"を扱いたいと現状の想定はそんな程度。
と言っても、実のところ"定期的にtwitterでお悩みを吐き出す機会をこちらに移したい"という意向が今回の行動を取るに至った最もな理由、動機です。

ではそんな具合で、いざ心機一転。