2015年9月6日日曜日

自分は自分、他人は他人!でいいのだろうか。

始めに正義感ありき。みたいな人格を備えてしまって正直厄介に思っている。
あからさまな自分語りから始めますけど、僕には平和ボケを地で行く過保護な環境で育ってしまったと自負しちまう部分がある。言うほど極端ではないけど、今のところはやっぱり「もっと上手にしつけて貰えたら嬉しかったかな」と。

「みんな仲良く手を取り合えば相互理解うんぬん」言う平和志向がまず備わるのは致し方無い部分もあった。まぁ現父母との巡り合わせと思えばただただ仕方がないし、そんな自分が嫌いという事は今はない。

で、だからと、
人様の 「自分は自分、他人は他人」 という主張や意見を見聞きした時にさ、
僕はこういう事を考えるわけだ。特に切羽詰っちゃった時の例ね。

「は?
随分個別的だね。
保身的なのかな?
事なかれ主義?
皆が皆自立しきって生きていけると思わないで欲しい。
僕には手を差し伸べない事を正当化しているように聞こえるし、
やろうと思えば皆が皆助けあって生きていく事も出来る。
そりゃ他者の事情に介入するのは面倒かもしれないけど、そもそも何で面倒って感じてるの?
あれ、そもそもその感性が分からない。
なんで僕は平等(無差別)に相互理解を得たいと思ってるんだ・・・ 」

唐突に情に揺られているしバカにもなっている。もはや正義感というより、正義感だったものが変質した何かだ。時間をかけて引きこもった結果とも言える。実際何かの病気かもしれんが、今話したい内容にはそれは直接関係ない。

まぁ僕の情がまず直感的に「気持ち悪い」と思う事は否定できないが、
それは病気として受け入れて生きていくべきだと思うが、
当社会では"ある程度は個別的にならざるを得ない部分もある"事には納得しなければならないと思うので、
今至っている答えを今回は書き残しておく。


以上の乱雑な思考で最も危惧し防ぎたいと思っているのは

自分で問題解決に至れていない者に対し"他人は他人"という理屈を以って放置を選ぶ事。

さらに無差別に手を取り合う事に拘っている点を要約すると

「厄介だろうが周囲に迷惑をかけているだろうが確かに"悪"らしかろうが介入すべきだ。てか当社会で悪という認識を使うならその時点でちょっと議論したい」

という意思の顕れである。僕が切羽詰まると毎度これを言っていると思ってくれていい。
とりあえずの問題は、"触れられなくなる者"の存在だ。
ここではそれを表現するために自立という言葉を使っているし、
ここで使っている自立について掘り下げる。自立できていないって何の事言ってんの?

自立という言葉の定義は僕には出来ないし、意味合い的には自律の方が近いとは思うが、
僕の勝手な印象に名前をつけているだけなので、あえて広義に扱える自立と言う事にする。

僕の思う自立・・言うなれば文化的自立は、
・自覚的で、最低限の論理思考を身につけ、助け合える状態。
・合理性を仲間にしている状態。
・以上の事が出来るほど余裕を確保できる状態。
といったような印象で構成されてる。色々言葉を見つけてハリボテ概念を作り出す事しか出来ない、申し訳ない。
ともかく言える事は誰だって切羽詰まれば非自立的になる。
乱暴な比喩だが誰だって切羽詰まれば文化人から動物になる。
そのくらいの差異が人様の判断力に生じていると思うからこうまで言いたい。

で、文化的に自立できていない状態では
人と助け合おうがそもそも他者の都合を推測する余裕すら持ち合わせていないと思える事が多かった。
誤解を回避する事が常に難しい。
ゆえにそもそも意思の疎通がままならない。
(でも印象の疎通は出来るかもしれない。印象の投げ合いだって僕は対話と呼んでおきたい。)
まぁ総じて程度問題だ。

余裕が無ければ人を癒やそうとしてもその間に無自覚的に人を傷つけやすい。誤解の回避にはエネルギーが要る。余裕が要る。
勝手に発生する摩擦を防げない。特に文化の差異に脆弱になる。

対して、常識や文化、捉え方や考え方が合う者同士であれば、印象の投げ合いだけでも質の高い対話が出来る。もはや前提知識が盛られすぎて傍目謎の単語が飛び交い続ける文化だって多いように思う。
気を使う必要が無い。誤解可能性が低く保たれる。まぁ過ぎれば退屈さで虚無感が生まれそうだけど。

が、現代人であればそういったものが通じない世界にいつかは放り込まれる。
現代社会で働く場合にグルーピングされる空間の殆どと言っていいだろうか。
僕は大学って場所を身をもって体験した事が無いけど、大学らへんで既に十分すぎるそれがありそうな気もする。

正直言って皆が常に文化的に自立出来ている事なんて滅多にない。
汲み取り合う余裕が素で持てない(苦手な)者は常に居るし、文化がどれくらいかけ離れていて周囲に合わせるためにどれくらいのエネルギーを使うべきかは運任せな部分が本当に多いと思う。実に人それぞれだ。美しい多様性だ。
合わないなら合わないで真っ先にある程度の妥協点を見つける人が大半だと思うけど、どれほど妥協するかは巡り合わせ次第だと思う。
まず自分なりの妥協点を見つける。

一見気持ちよく付き合えても、根がかけ離れていてエネルギーを使うことになる人も居る。
そんなリスキーな人もあらかじめ避けるような、そんな妥協点を得る人も居るかもしれない。
まず自分なりの妥協点を見つける。

そうやって皆、程度問題と付き合っている。
ここまでが「そういうものだ」と納得できている1つのターニングポイント。
その先にようやく"助け合う事に意味がある世界"を見出した話をしたい。
相互理解に価値を感じて、ちょっと深い対話を始める事ができる仲がようやく発生する。
時には身を削ってでも同胞を助ける事で、最終的に仲間達で成長できる事もある。
そういう世界にようやく入るという話をしたいんだけど、
書くの疲れてきました。一旦割愛。

当初言いたかった事が埋もれてしまったので、都合良い箇条書きして今日は終えます。

・自立はムズい

・社会に揉まれ理不尽を受けて防波堤建設までは誰もがする。するしかない。

・これで自立状態になる頻度が急に増えるものだと思う。

・自立した者同士なら誤解を避け合って助け合える。文化差の程度はついてまわるが。

・自立するまでは各々の問題、他人は他人という理解に留まらないといけない。介入は無駄なエネルギー消費になりやすいと思った。なので仕方ない。

・人々が余裕持ちやすい、自立しやすい環境作りたいよな。作りたくない?

そんな動機で当記事を書き始めました。国語力については精進します。。
また機会があれば。では。

ブログ乗り換え。

5年周期くらいだろうか、
定期的にブログを新規に乗り換えてしまっている気がする。まぁこういうのならまだ乗り換えるだけ自由が利くし、心機一転という事ならそれでいい。恐らくはメリットの方が大きい。
と思いたいがどうだろう。

今は他にカードゲーム用のブログがあるけど、当ブログでは"その他"を扱いたいと現状の想定はそんな程度。
と言っても、実のところ"定期的にtwitterでお悩みを吐き出す機会をこちらに移したい"という意向が今回の行動を取るに至った最もな理由、動機です。

ではそんな具合で、いざ心機一転。